元モンスター描き。 諸々の感想と近況ブログです。   since2005.05.15
止まった時計

 あのオウム真理教の三女の手記。
当時どういう風に育つのやら…と思っていましたが、そうか、こんな本を出していたのか。
彼女自身が何か罪を犯したわけではないので複雑な気分ですが、最近手記と言う分野の読書にハマり気味なので、読んでみる。

 しかしまぁ、期待は裏切られました。
そこに明確な『何故』の答えが無いからです。
 彼女にとって父親はあくまで尊敬すべき大好きな父親と言うだけで、客観的に見て宗教家としての責任を考えるとか、はたまた罪を犯した一個人であると言う視点はありません。
 頭から、父親の事を罪を犯したと『される』と言う表現で引っかかったのですが、どうも父親の口から何も語られない以上、真実は解らない。不確定な事だから無実を信じると言ったスタンスの様です。
………。
 自分の家族を信じる気持ちは解らないでもないのですが、かと言ってどうも彼女は、母親の事は明確に突き放してますし、他の子供や幹部たちの証言とも食い違う話があるとの事で―。(ここら辺他の人の手記を読んでないから明確ではないんですが。)
とりあえず、被害者や世間の感情から考えると、なかなかに受け入れ難いスタンスで話は始められます。

 タイトルの『止まった時計』と言うのは、父親が逮捕された事で自分の時計は止まってしまった、つらい過去を振り返って再び前を向いて歩き出したい―との意味の様ですが、そこには贖罪の意識はなく、自分が不幸になってしまった時間以降の人生を否定して、「こんなの納得いかない、私が生きるべき人生じゃない」と言っている様に聞こえました。
思い出すのも辛い記憶を手繰って書いたとされるのは、事件の後悔や周囲への罪悪感ではなく、自分がしたいのに出来なかった事、こういう事をされて辛かった等のエピソードの事のようです。
 彼女の責に寄らない所で差別されたり、特別視したりされたりと、彼女自身が被害者の部分を持っている事自体は否定しませんが、世間から見た時に、教団と言う一カテゴリーの中に自分が居ると言う視点がないようで…。
 幹部の暴走だとか、自分の知らない所でと、まるで自分や父親が悪いわけではないと言っている様にしか聞こえないのです。
 事実もしそうであろうがなかろうが、例えばかつて自国が酷い侵略を他国に一方的にしたとして、自分は従軍してないし、と自分の事情ばかり喋る人間と、我が国が酷い事をしましたといたたまれない様子の人とじゃ、どう印象が変わるか…。あなたに責任はありませんよ、って自分で言うものじゃないものね。
 誰が主犯とか父親が認めていないとかそう言う問題じゃないと思うんですよ。
仮に幹部のみの暴走だったとして、教祖としての責任とか、そこで恩恵を受け育ち、宗教的高位まで名乗っていた者としての背負うものだとか―。そう言うのが聞きたくて大抵の人はこの本を手に取るんじゃなかろうか。
 本の中の、実際に自白している幹部らの言葉にも、勿論酷いものはあります。信じていたのも自分の責任なのに、手の平返しで教祖を悪し様に―ってね。まぁ確かに信者たちが丸投げで教祖のせいにするのはおかしいと思います。でも生き方の指標を『自分が導く』として宗教を開き招いたのは教祖自身と言う点も忘れちゃいけない。
 残念ながら人は悪事を働いたものに反省を求め、ようやく自分達の善悪の価値と同じ思考に至った罪人を受け入れ始めます。
価値観の変わらない人間は敵対視されたままです。
 いくら彼女が誤解してます、教団はこんな風でしたとこの本を読んでほしいと思っても、世間的には彼女の伝えたい事、信じて欲しい事だけを丸飲みで都合よく読むわけじゃありません。
むしろこの本の批評のすさまじい事…。
そして自分たちの聞きたい言葉が入っていなかったと憤るのです。

 そりゃまぁあの中で何が事実かなんていう事は、私達は中心に居た彼女よりも遠くで『そう言われている事』を盾に吠え立てる存在でしかないわけですが、それでも、単純に思考上でこちら側に立っていない人にはやはりがっかり―いや、むしろうすら寒さすら感じてしまうのです。
 彼女自身がお飾りかと言えば読んでいる限り、権力はそれほどに無かったとしても、宗教的上位者の意識は十分すぎるほどあったようですし、その名の影響力は大きいです。
 生まれた環境のせいだ、自分が同じ立場になったらとか、考えるベクトルはいくつでもあります。
 その上であえて感じた所を率直に言えば、エピソードの数々は、子供とは言え我儘で自我を抑える術も知らず暴れまわり、あの王国の中で傍若無人に振る舞っていたと言う印象しかありません。
優しい父、怒らない信者たち、そりゃぁ好きにもなるでしょう。
(逆に怒る母親や、後年意見の食い違いで仲違いをした信者の事はその時点以降、物凄い距離を取ります。好きな人の事はどこまでも好き、だけど気に入らない人間はそこまでで断ち切る、と言った感じで、彼女の人間の好き嫌いは相当激しい。そこは分かり易く純粋だとも感じるのですが、喧嘩は一人じゃ出来ません。彼女が折れた、歩み寄ったと言うエピソードはないんだろうか?母親に対しては愛されていないように感じつつも、守らなきゃと思ってはいるようだけど…。)
 また気になったのが、幼い頃の失敗も姉にそそのかされたとか、そういう表現をしている所。
父親についても周囲の信者が…とか、どうして自分の責任において物事を考えずに、悪いのは周りだと言うような考えをしている事に疑いを持っていないのだろう。
 別に彼女だって、悪いと感じた事には謝意もあるし、反省も感じています。
長じて勉学に励みたい、教団と距離を置きたいと考えだした頃には、前を向いている印象はありました。しかしいざ大学に行ってみると楽しく遊ぶところだと思っていたのに想像と違っていたとか、がっくり来ちゃう事を言ってみたり、様々なトラブルを○○から受けた、がんばる自分―と言うパターンばかりで、そこには自分の言動を顧みる姿も、他者への想像と言うものも、窺う事が出来ない。
 つまり『(良い事も悪い事も)自分がされた事』の記録であり、誰かはこう思っていたに違いないとか、自分が何か失敗したのだろうかとか、他者の気持ちを想像してみたり立場に立ってみたりと言う視点。
 彼女にしてみたら他人の憶測が誤解を生む事、解らない事を推測で言うなんて愚かしいと言う、それはそれで立派な理があるのだと思います。(周囲の自分に対する認識と自己認識の間にこれだけ差がある生き方してたら、まぁトラウマレベルでこういう傾向が出ても致し方ないと思うけど。)
 確かに、それ自体は正しい。
けれども、他者への共感、想像無しに人を思いやったり、関係をスムーズにしたり、それってかなり難しい事なんじゃなかろうか。
学生として友人らが出来た心温まるエピソードも、彼女が受け入れられたエピソードであって、彼女が異質の誰かを受け入れたエピソードではないんです。
 父親に認められたい、母親に愛されたい、信者に相手にしてほしい、迫害されたくない、私自身を見てほしい、ほしいほしいほしい―。

 結局これはオウムがどうこうという本じゃありません。
一人の娘の、父親への愛の賛歌と、満たされない気持ちの回顧録です。

 最後の辺りで少しだけホッとするのは、大きくなってからようやく、被害者の家族や周囲に同情の様な気持ちを寄せている事です。
 ただ、当事者じゃないからその気持ちは理解出来ないとか(前述の本人の事は本人しかと言うこだわりが強すぎるのか)誤解を与えそうな言い回ししかしないし、亡くなっている当人らに対しての事が抜け落ちていたり。
 どうも彼女は自分の『親しい人たちが事件を起こし消えて行った』と言う環境と、被害者遺族らの環境を重ねて、お互い取り残されたね、悲しいねと言う感じでいるようなのですよね…。
(だから亡くなった方本人へではなく、周囲の人を強調して残念がる。)
 やっぱりまだずれているものを感じるのだけれど、外へは少しずつ向き始めているのかな、と可能性は感じました。

 この本の全部を信じるかどうかは解らないとしか言いようがないのですが、無論彼女の人生の中で辛い事は辛かったのだろうと言う部分までは否定しません。
しかし世間が求めていた内容ではなかった事は、そうだろうなと思います。

 なお文章は基本的に整っているのですが、ごくたまにおかしな文章があったり、章の中で時系列が飛んで解り辛かったりする所もあります。
(しかし小学生で絵本も読めなかった所からみれば、相当勉強したんだろうなぁ…。)
 あとこれは純粋に疑問なんですが、2歳の頃の旅行の事を覚えているとか、幼児期の記憶って、そんなにはっきりと覚えているものなんだ?
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