元モンスター描き。 諸々の感想と近況ブログです。   since2005.05.15
戦争孤児と戦後児童保護の歴史 台場、八丈島に「島流し」にされた子どもたち

 孤児院ビジネスの話から、なら日本の孤児院はどうだったのか。
なんて所から本探し。
これに当たる。
 島流しと言う強烈なタイトルですが、戦争孤児と言う一気大量に現れた存在を、戦後の日本がどう取り合っていたか、ですね。
 『国の命令で父親を亡くしたのだから、戦争孤児は国が養うのが当然』と言う理屈はよく解りましたが、それで戦争孤児が普通の孤児より手厚く保護されるのに不平等感とかもあったのですって。…うーん、確かに理屈に適っているようだけど、現場じゃ実際の子供たち前にそんな不平等は辛いか…。

 この様に時代や背景、立場の違いで衝撃を知らされる本なのですが、さらに驚いたのが、孤児らは浮浪児であり、狩られる対象で合ったという事。
綺麗事なしに、保護の対象であると同時に、治安や衛生上の問題もあり、痛々しくあると同時に苦々しい存在でもあったのでしょう。
 政府の方針で浮浪児狩りと言う単語自体が衝撃ですが、実際に捕まえるのに一匹二匹と数える現場も。…怖い。
 そのせいか、食べるものや住む所、風呂、衣服を与えられるにも関わらず、孤児たちは施設や役人の手から逃げ出すのが当たり前だったらしく。
え…保護されて施設から逃げ出すのか…。
 住む所も食べるものもない彼らが、どこに逃げようと言うのか。また、それほどまでに『全て』の孤児保護施設が地獄だったようにも思えませんが…。
 恐らく当時を実際の孤児らが語る体験の中の一部がクローズアップされている事もあるのでしょうが、現にこの島流し、「あー、もう逃げられないように島に閉じ込めちまえ!」と言う孤児らが施設から逃げないようにする対策でもあったようです。…なるほど。
 子供らは、逃げないように職員の目が届かない時間は服を脱がされて逃亡防止されていたと言う話もあるのだから、どれだけ捕まえ、逃げられのイタチゴッコがあったのでしょう。
(しかし捕まる孤児らは、犯罪や売春等、まともな金稼ぎは出来ていないわけです。病気にもかかっていましたし…。
孤児らはただ現代の感覚の様に「子供だから可哀想」だけの存在じゃなかったのが痛ましいですね。)

 孤児に付いての本を探していたとはいえ、外国と比べるのにこの昔の戦後の孤児の本では比較にならないでしょうか。
ただ、混乱加減と言うか、ある意味経済的には同じ程度で量れそうな気もしますが…。
 肝心の子供たちが何故逃げるかですが、家がないのに家に帰りたいとか、ここではなく東京に行けば―とか、現実的な救済ではなく、希望のような物だと思えました。自由がない事が人間らしく生きられない理由であるのは解ります。しかしその自由の先に何があるのかは、また別の苦しみであると見えている場合でも、求めずにはいられない―ある意味希望の残酷な一面を見た気がします。
勿論施設の運営自体にも多くの問題は合ったのでしょうが、さすがに例の外国の様なビジネス―はなかったわけですが。
 管理される事自体と、寝食を与えられる事、価値観もあるけれど、一概に管理する側だけを攻めにくい…。少なくともやってる方は救済だと言う認識だけはあって、やり方が上手くなかっただけなんでしょう。
 それもこれも、当時そこにいた少年たちに「逃げたかった」と語られたら綺麗事になっちゃうんだろうか…。実際に海に逃げ出して溺死した子供たちも居た位なので、外部からは見えない色々もあったのでしょうが。
逃亡に成功した子供は、果たして少しでも幸せな生活を送っていれば良いのですが…。
 ただ、最終的にはそういった施設も感化院にもなっていったようで、そこまでくるともう少年たちとの大乱闘。
少年たちは火を付けたり、大人たちに暴力を振るったり、凄かったようです。
それで余計に島の住人たちから色眼鏡で見られると言う―。

 放っておけば食べれなくなる。貧すれば鈍する。生きるための盗みが正当化され、ますます周囲からつま弾きにされる。根本と思える生活を援助しても、管理されるのが生きている人間という事はこんなにも難しい。
カンボジア孤児院ビジネス

 タイトルがすべてを物語る、孤児院にビジネスと言う不穏なキーワード。
お察しの通り、孤児院が金儲けに使われていると言う話です。
 著者はこの件で何度も現地へ取材に言っているようですし、研究だとかニュースだとかではなく、ジャーナリストとしての本かな。

 しかし…色々衝撃を受けました。
予備知識でこのタイトルなのにそれでも予想よりも酷かったのが、思いつく限りの子供への虐待とかよりも、『そもそも孤児院と言いつつ、親のいない子がほとんどいない』と言う事でした。
 ―どういう事?と思ったら、貧しい家の親が、子を育てられない、教育が受けられる、金儲けになると言う理由で、孤児院に子を送り込んでくるそうです。
 それも、泣く泣くとかでなく、そこそこ子供を大きくさせたら、手のひらを返したように「うちの働き手だ」と子供を引き取りに来るんだそうで。
…ぇぇ…。
孤児院は孤児院で金儲けしているのは想像付いたけど、親…。
 そして孤児院をどんどん作り、援助金を受けながら、実態では孤児でもなんでもない子供を使って、観光やボランティアで訪れる外国人を『可哀想でしょ』『子供は純粋で何の罪もないでしょ』と愛想よく、気に入られる様に演技させ、収入を得るのです。
 せめて、せめてこれを本当の孤児でやっているなら話はまだ分かるが、本当の孤児無視で托卵の様に子供を利用するのが…とんでもないビジネスです。
 勿論そこにはやはり搾取される子供の姿があり、売春だの虐待だのの問題もあります。
それも含めて、子どもが餌にされてるのですね。

 中には本当の孤児も居るとしても、孤児院の名乗りは金が儲かるとしてどんどん孤児院ばかり増えていき、援助や寄付を謡いながら善意の外国人を引っ張り込む手口には怒りを覚えます。
(売春目的で来る外国人はお話しにすらならないですが。)
 しかし意外とカンボジア人自体は、孤児院の金の流れなんてザルで当たり前とか、親の托卵状態は貧しいからどこでもやるよとか、孤児院内の子供のえこひいきとか、教育とは名ばかりの授業のからっぽさとか、結構無関心だそうです。
…まぁ、騙される財布は外国人の物ですが…。
 しかし若い学生なんかがボランティア!海外の可哀想な子供たちを手助けする自分!とかの上辺に酔っちゃって、自分がそこで吸い取られたお金の使われ方を照査しようともしない事も情けないやらお人好しやら…。(内訳のない領収書のみで、旅行代金はいくらで、必要経費がこれだけ、いくらが子供の教科書代にとか、食費にとか、説明もない。提示されたものが嘘だとしても、考えや運動に賛同するにはそういった具体的な施設の行動と原理を調べて納得した上で参加すべきなはず。でなきゃ雰囲気を買っただけになる。)
全部ビジネスで大人の私腹を肥やされていると言うのにね…。

 まぁ、自分もこの本を読むまで、まさか孤児院を作るためにわざわざ親のいる子を集めているなんてとんでもない状況を予想だにしていませんでした。これ自体への浅ましさに加えて、本当の孤児が報われないと言う結末を考えない事も。自分たちの行為がばれるとおまんまの食い上げと、作者の取材などにはことごとくシャットアウト喰らわせるんだから考える頭があると言うのに。
 自分自身が貧しい事があったとしても、自分よりさらに弱いものから搾取する。大人同士なら弱肉強食論も解るのですが、相手が子供かと思うと、極まれり感が強いです…。(そもそもどの大人たちも食うや食わずじゃなく単なる贅沢に金を回してるもんなぁ…必要性がない。)
 生まれた国や環境で、こうまで考え方が違うのだな、とただため息をつくだけです―。
のんのんばあとオレ

 水木しげる氏。
のんのんばあはよく聞くけど、まだ読んでみた事が無かったので。

 で、のんのんってのは拝み屋さんの事なのねぇ。
ああ、なんか音的に解るなぁ。のんのんさんか。
 そんなお婆さんが家付きあいとしてご近所に居て、発育の遅かった(けどやんちゃでガキ大将を目指していた)しげる君をよくみてくれていて、そこで妖怪のお話を染み込まされた―と。
 成程真顔で当たり前の様におばあさんの口から出る妖怪には、理由も原因もあって、確かに不思議な現象がそこにあるんだから疑う事もしなかったわけだ。
このお婆さんが居なかったら、水木しげる氏の妖怪ワールドはなかったわけで、すごく重要な人物なのだね。

 しかし水木氏の小さい頃って、負けん気が強くて、ガキ大将を狙うけど大体負けていて、それでもしつっこく―と言う繰り返し。
うーん、この青びょうたんでもなく、向かうところ敵なしの強者でもなくって所がリアル。
悪戯者ではあったようだけど。
 幼い頃の町毎のガキ大将同士の戦争とか、あるある。
小さい内は外されて、大きくなると年上でも根性の見せ合いになるのよね。
普通に、昔の田舎の少年譚を聞いているようで楽しかったわ。

 いつもの妖怪的ムードよりも、少年期の珍しい水木しげる氏を垣間見れて意外な面白さでした。
平凡倶楽部

 こうの 史代さん。
ぴっぴらさんの時から好きだったけどまさか映画とか、ああいう方面に行くとは思わなかったわ。(本人は特別戦争物どうの思って描いてないらしく、それもらしいな。)でも雰囲気のある時代ものの絵柄だし、売れて嬉しい。
 こういう作品もあるんだなぁと、色んなものを詰め合わせた一冊。
彼女は描き文字も味が合って読み易いので、エッセイも好き。
しかしいろいろ遊び過ぎで中々ぶっ飛んだ本です。
 ハンコで建物を描いたり、手書き文字故の文字の大きさで文章を絵にしたり、写真を多用したり―。
エッセイ本と言うよりは落書きノートを見ているような楽しさ。
 色々突き詰めれば変わった人なのかもしれない、この人…。
ニューヨークの高校生、マンガを描く 彼らの人生はどう変わったか

 NYの高校生たちがマンガ(日本の)を描くと言うタイトルのままですが、まずNYと言えども黒人系、ラテン系、アジア系のアメリカ人のようで、白人系は居ないようです。
 それから、実際に作品もいくつか切り取りの形で載っているのですが、日本人から見てマンガっぽいと言えるものは極々わずか。
どうしてもあちらの感覚と言うかセンスに比したキャラやコマ割、文字列に思えます。
(中には本当に日本っぽいものを描く人も居るんだが、そこまで行くとかえってオリジナリティが感じられず微妙。)
 勿論素人の物ですし、日本の学生が描く同人や漫研物の方がレベルが高いのは当たり前なのですが、この本の読み所は漫画を描く事を通じて、彼らの悲惨な人生がどう変わったかを一人一人紹介している点です。
 最初に言っておくと、ジャパンクール的な漫画を描く高校生という事である程度注目を浴びたようですが、その後プロになれた人は一人もいないそうです。
 その結末に現実を感じて爽快感はないわけですが、それでもティーンの頃を、日常に溢れる暴力や貧困に負けず向き合い、逃避し、自分を守る事が出来たのは漫画を描いていたからという事は確かなようです。
 辛い悩みも、漫画を読んでいればその世界へ逃げ込める。
そして漫画を見ていると書きたくなってくる。
鬱積した自己を表現出来る―と。
 彼らの漫画クラブは少なくともアーティストの表現の力を信じている大人たち(と勿論本人たち)のプロデュースによって生まれました。
 後に色んな改変や助成金の問題でクラブは形を変えてしまい、自由ではなくなっていくのですが、黎明期のクラブ員たちがどんなふうに漫画で成長したのか、異文化と日本の漫画文化を絡めながら身近に感じて読み取る事が出来ると思います。

 そもそもの人生や文化が全く違う別の国の人でも、漫画に惹かれる気持ちが同じと言うのは面白いものです。
ただやはり「こういうのが(日本の)マンガよ!」とコミックとの違いを褒めそやしてくれるのはいいのですが、あまりにも狭義と言うか表面的な評価にも感じました。大きな目やチビキャラや美少年…。
 実際には漫画も色んな作風や表現があるわけで、マンガ、コミックと決めつけず受け入れていけばいいのになぁとちょっと思いますが。いや、寧ろ枠を決められるのが心外で、人の数だけ多様なものがあるのがマンガだと思うし。
 彼らが読んでいる作品は日本でもまぁ一般的な売れていてファンの多いものが大半なので、マイナーでもこんな漫画もあるんだよと言うようなものを見せてその反応を知ってみたいなぁ。(なお彼らはコスプレもする。コミケに憧れている。)
 表現の世界に枠はないよね。